レイチェル・カーソン日本協会 関西フォーラム

『沈黙の春』へのアプローチ

 アメリカの海洋生物学者レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が雑誌『ニューヨーカー』に掲載されたのは1962年6月16日のことでした。『沈黙の春』は、DDTをはじめとする農薬・殺虫剤など化学物質がとめどなく使用されたならば自然の生態系はどうなるのか、そこに生きる生きものはどうなるのか、さらに人間にはどんな影響がでるのかということを鋭く問いかけた警告の書です。彼女の警告は大きな反響をよびおこし、アメリカ社会をかえたといわれています。
 それから50年近くが経過しました。この間、実に多くの人が『沈黙の春』を読み、語り継いできました。そして、いまでは『沈黙の春』は「環境問題の古典」としての位置を占めています。

 

1 レイチェル・カーソンの生涯

 レイチェル・カーソンは、1907年5月27日、ペンシルバニア州ピッツバーグの近くのスプリングデールという小さな町で生まれました。
彼女は小さなときから、母親の影響をうけ、自然と自然の中に生きる小さな生き物たちに興味をもっていたということです。また、ペンシルバニア州は海のない地域ですが、まだ見たこともない海に対する強い憧れを抱いていたということです。耳に貝殻をあてると遠く潮鳴りが聞こえるといって楽しんだというエピソードが伝えられています。
 また、母親が読む物語の面白さにひかれ、作家になることを夢見るようになったということです。子どもむけ雑誌『セント・ニコラス』に投稿した作品が受賞し、原稿料をもらうこともあったということです。
 彼女は、ペンシルバニア女子大学にすすみました。文学志望であった彼女でしたが、生物学の授業を担当したスキンカー先生の影響をうけ、進路を変え、海洋生物学者への道を歩き始めるのです。
 彼女が実際に海と出会うのはジョンズ・ホプキンズ大学の大学院に進学し、夏期研修でウッズホール海洋生物研究所に出かけたときのことです。彼女はここで海と海に生きる生き物たちと接し、強い絆で結ばれたのです。
 彼女は、出きることなら研究者としての道を歩みたかったのでしょうが、残念なことに、父が死去し、彼女が家計を支えなければならなくなったのです。アルバイトで海を題材にしたラジオ番組の台本を書いたことが縁で、漁業局に勤務する公務員になりました。
 彼女の書いた番組の台本は好評で、月刊誌『アトランティック・マンスリー』に掲載されることになりました。これは彼女の名前が全国的な雑誌にはじめて出たもので、最初の作品『潮風の下で』(1941)を執筆するきっかけにもなりました。
 他方で、彼女の仕事は、彼女の文筆力をいかすにふさわしい、自然保護地域の現状を紹介する広報物の編集であったことから、次第にその実力が評価されていくようになりました。取材で各地を歩き、水中調査や航海体験をもったことも、海についての彼女の研究にプラスになったといえます。
 彼女に転機がきました。彼女が書いた『われらをめぐる海』(1951)がベストセラーになったのです。あわせて再刊された『潮風の下で』もヒットし、彼女が文筆家として専念できる経済的な条件をととのえてくれました。
 1952年、公務員生活にピリオドをうち、1953年にはメイン州のブースベイに別荘をもつことになりました。
 彼女はつづいて『海辺』(1955)を執筆しました。彼女は『われらをめぐる海』が「海の物理学的様相」を描いたのにたいし、『海辺』は「海の生物学的様相」を描いたものだとのべています。この作品もベストセラーになり、彼女は「海の伝記作家」としての名声をうることになりました。
 彼女が50歳になるころ、姪の子ロジャーを養子としてむかえることになりました。彼女は、かつて母親が自分にしてくれたように、ロジャーを連れて海辺や森を散策し、自然と自然の中に生きる小さな生き物たちにふれる喜びを分かち合うようにしました。その体験が『センス・オブ・ワンダー』となって実を結ぶのです。この作品は、1956年、『ウーマンズ・ホーム・コンパニオン』という雑誌に掲載されたエッセイです。
 彼女は、子どもたちが本来もっている「センス・オブ・ワンダー」(神秘や不思議さに目をみはる感性)をいつまでも失うことがないように、そのために「私たちが住んでいる世界のよろこび、感激、神秘などを子どもといっしょに再発見し、感動をわかちあう」ようにしなければならないと強調しています。そして、子どもにとっても、親にとっても、「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないというのです。
 彼女は「地球の美しさについて深く思いをめぐらせる人は生命の終わりの瞬間まで、生き生きとした精神力をたもちつづけることができる」という素晴らしい言葉をのこしてくれました。
 この『センス・オブ・ワンダー』は、彼女の死後、1965年になってから出版されました。この作品は、文字通り、彼女の「最後のメッセージ」として多くの人に読み継がれています。

 

2 『沈黙の春』の執筆とその波紋

 レイチェル・カーソンは、生涯に5冊の本を残しました。そのうち3冊までが海にちなんだ作品でした。このことから彼女は「海の伝記作家」とよばれるのですが、もしも『沈黙の春』を書かなければ、彼女はひきつづき海と海に生きる小さな生き物たちの世界を書き続けたのかもしれません。あるいは『センス・オブ・ワンダー』の周辺であらたな展開をみせたのかもしれません。
 しかし、彼女は、『沈黙の春』を書かなければならなかったのです。これからそのお話をすることにします。
 『沈黙の春』の「まえがき」は「1958年の1月だっただろうか」という書き出しではじまります。
 「オルガ・オーウエンズ・ハキンズが手紙を寄こした。彼女が大切にしている小さな自然の世界から、生命という生命が姿を消してしまったと、悲しい言葉を書きつづってきた。まえに、長いこと調べかけてそのままにしておいた仕事を、またやりはじめようと、固く決心したのは、その手紙を見たときだった。どうしてもこの本を書かなければならないと思った。」
 このように、オルガ・オーウエンズ・ハキンズからの一通の手紙こそ、レイチェル・カーソンが『沈黙の春』を書かねばならないと決意させるきっかけになったものでした。
 オルガ・オーウエンズ・ハキンズという人はマサチューセッツに住んでいた人でした。この地域ではカの撲滅のために農薬の空中散布が広域にわたって行なわれた、そのために自分のもっている禁猟区の鳥たちがたくさん無残な死に方をしてしまったというのです。だから農薬の空中散布のようなことはやめさせてほしいと訴えてきたのです。
 1950年代のアメリカでは、化学物質の大量生産、大量使用が行なわれていました。農薬・殺虫剤の使用も大規模化し、「害虫駆除」を目的にした農薬の空中散布もいたるところで行なわれていました。
 『沈黙の春』の第10章をみると、当時のアメリカで行われていた二つの大量スプレー計画のことが紹介されます。アメリカ北東部でのマイマイガと南部地域のヒアリを撲滅するための計画です。この二つの計画を例に、レイチェル・カーソンは乱暴な農薬・殺虫剤の使用について告発するのです。
 このなかで、ロングアイランドの事例が紹介されます。
 「ロングアイランドも、1957年に、マイマイガ撲滅のスプレーをうけている。・・・・マイマイガは、森にすむ昆虫で、都会に棲息することなどはない。また、牧草地や、畑や、庭や、沼地にも育たない。それなのに、合衆国農務省、ニューヨーク州農務通産庁は、飛行機をやとい、燃料油に溶解させたDDTを空からあたり一面無差別にあびせかけたのだ。畑も、酪農場も、養魚場も、塩沢も、DDTをかぶり、郊外のひろい範囲がスプレーをこうむった。飛行機がこないうちにと、必死の思いで庭の花におおいをかけていた主婦はびしょぬれになり、遊んでいる子どもたち、駅で電車を待っている通勤者、みんなの上に殺虫剤が降りそそいだ。」
 このようななかで住民たちは農薬の空中散布の中止を求めて裁判を起こしたのです。裁判所は住民の訴えを門前払いにしてしまったのですが、この裁判の関係者からの情報を手にしたカーソンは「これは放置できない、農薬の空中散布を中止させなければならない」と思い、彼女なりに各方面にはたらきかけをはじめたのです。
 結局、彼女は『沈黙の春』を書くことを決意するのです。自分にとっては専門外のことであり、相手にするのは農薬メーカーや化学工業関係者であり、なまはんかなことではできるものではないことだということは彼女も十分わかっていたはずですが、それでも自分が書かねばならないと考えたのです。
この仕事は容易ならぬことでした。多くの専門家からの情報提供を求め、丹念に資料にあたり、農薬・殺虫剤が自然の生態系、そこに生きる生き物たち、さらに人間の健康にどのような影響を及ぼすのかを克明に論証しなければなりませんでした。彼女の仕事ぶりは、「まえがき」に記された、彼女が協力を求めた数多くの専門家たちのリスト、それに原書の巻末につけられた参考論文・資料リストからもうかがい知ることができます。
 他方で、彼女の身辺では母親が死去し、ロジャーの面倒をすべて彼女自身がみなければなりませんでした。加えて彼女自身の健康状態はきわめて深刻な状況にありました。ガンとのたたかいでした。放射線治療をうけ、何もできない日々もありました。
 執筆を決意してから4年間、徹底的な調査をすすめ、1962年の春先、原稿が完成します。『沈黙の春』の出版社のホートン・ミフリン社の編集者ポール・ブルックス、出版代理人のマリー・ローデル、そして雑誌『ニューヨーカー』の編集者ウイリアム・ショーンの反応をたしかめ、自信をもった彼女は、ベートーベンのバイオリン協奏曲を聞きながら、苦しかった4年間をふりかえり、「やるべきことはやった」という深い満足感をいだいたというエピソードが残されています。
 1962年6月16日、『ニューヨーカー』に『沈黙の春』が掲載されました。たちまち「サイレント・スプリングが騒々しい夏になった」といわれるような反響がありました。「よくぞ書いてくれた」という賞賛の声もありましたが、予想通り、農薬メーカーや化学工業関係者から猛烈な攻撃がはじまったのです。口汚い個人攻撃もありました。このような反響についてはフランク・グレアム・ジュニアの『サイレント・スプリングの行くえ』やポール・ブルックスの『レイチェル・カーソン』などが詳しく記しています。
 これらの攻撃に対して、彼女は自分の仕事に自信をもっていましたので、CBSテレビのディベート番組で意見をのべたほかには、ことさら反論するということもありませんでした。
 『沈黙の春』がよびおこした論争は、結局、ケネディ大統領の特別委員会の報告書が事実上カーソンの立場を認めたことにより決着し、なお時間は要したというものの、危険な農薬・殺虫剤にたいする規制の方向がとられるようになったのです。
 このような波紋が広がるなかで、彼女は、1964年4月14日、ワシントン郊外のシルバースプリングの自宅で静かにこの世をさるのです。56歳でした。

 

3 『沈黙の春』の4つの柱

 「沈黙の春」は、DDTなどの農薬・殺虫剤がとめどなく使用されたとき、自然の生態系はどうなるのか、そこに生きる生き物はどうなるのか、さらには人間に対する影響はないのかと問いかけたものですが、それは大きくいって4つのことを柱に構成されています。

(1)「おそるべき力」

 「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、二十世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」
 これは、「沈黙の春」の第二章「負担は耐えねばならぬ」の冒頭の一節です。レイチェル・カーソンが、ここで指摘しているように、人間は、二十世紀というわずかな時代、それもこの数十年という間に「おそるべき力」を手に入れてしまったのです。
 「おそるべき力」とは、いったい何か?ひとつは「核」です。時には核兵器にもなり、時には原子力発電というものにもおき換えられます。これは、人類存続の危機に追いこむかもしれない「おそるべき力」というべきものです。
 もうひとつの「おそるべき力」、それが「化学物質」です。第二次世界大戦前後、化学物質は急速に開発されました。ナチスのヒットラーは部下たちに「毒ガス兵器」を大量に作るように命じたといいます。オウム事件を通じて「サリン」という物質名が知られるようになったが、これもナチスが作った毒ガスの一種であったのです。これらの毒ガスに少し化学的に手を加えたものが、農薬・殺虫剤になるわけです。これらの化学物質は、その後次々と応用され、我々のくらしの中に浸透してきました。高度経済成長期における日本は、アメリカ文化を目標に発展してきたわけですが、「化学物質文明」という化学物質漬けの暮らしに包み込まれていったという経緯を見逃しにはできないでしょう。
 レイチェル・カーソンは、これらの「おそるべき力」が「第二次世界大戦のおとし子だった」と指摘します。私たちは、二十一世紀にむけて、「核」や「化学物質」とどのように付き合っていくかが問われているのです。これは、二十一世紀の基本テーマとなる、そう捉えても言い過ぎではないかもしれません。

(2)生命の連鎖が毒の連鎖にかわる

 「食物連鎖」とか、「生物濃縮」ということは、いまでは生物学や生態学の基礎知識とされる事項ですが、レイチェル・カーソンは、「おそるべき力」というべき化学物質が、自然の生態系や野生生物の中で様々な影響を及ぼしながら、最後は人間に戻ってくる、「生命の連鎖」が「毒の連鎖」に変わるということを事実を積み上げ警告したのです。日本では、公害問題としてよく例にとりあげられる水俣病の話、そしてレイチェル・カーソンが事例として発表したクリア湖のハクチョウカイツブリ(白鳥の一種)の突然死の話などは、命のつながりが毒のつながりへと変わってしまったことを物語っているといえます。
 「静かに水をたたえる池に石を投げこんだときのように輪を描いてひろがってゆく毒の波――石を投げこんだのは誰か。死の連鎖をひき起こした者はだれなのか。」
 レイチェル・カーソンの問いはきわめて鋭いのです。
 いまでは10万種類にも及ぶ化学物質が開発され、さまざまな形で身の回りに出回っています。しかし、どのような化学物質が、どのように生産され、どのように使用され、どのように廃棄・処理されているのか、その実態はなかなか正確に把握することはできません。大量の化学物質が、私たちの知らない形で、環境汚染をすすめているのかもしれないのです。
 「人類の歴史がはじまって以来、いままでだれも経験しなかった宿命を、私たちは背負わされている。いまや、人間という人間は、母の胎内に宿ったときから年老いて死ぬまで、おそろしい化学薬品の呪縛のもとにある。」「こうした化学薬品がどういう影響をあたえるのか、ほとんど調べもしないで、化学薬品を使わせたのだった。これから生まれてくる子どもたち、そのまた子どもたちは、何と言うだろうか。生命の支柱である自然の世界の安全を私たちが守らなかったことを、大目にみることはないだろう。」
 このような「沈黙の春」の警告をいまいちど深く考えなければならないのです。

(3)さいごは人間!

 毒の連鎖の最後は人間です。
 「沈黙の春」では、毒の連鎖による人間の健康障害は、まず、肝臓から起るといわれています。続いて神経系統が冒され、ガンへと移行するのです。近い将来、生涯のうち四人に一人が、ガンで死んでしまう時代が来るというのです。
 そして、更に深刻に考えなければならない事実として、遺伝子の損傷という問題があげられています。「人類全体を考えたときに、個人の生命よりもはるかに大切な財産は、遺伝子であり、それによって私たちは過去と未来につながっている」のである。この遺伝子に影響が及ぶというのは「私たちの文明をおびやかす最後にして最大の危険」だというのです。
 このような化学物質の人間の健康への影響についての指摘は、当然ながら、時代の制約があり、こんにちの医学や生命科学の研究成果からすれば色あせたものかもしれません。
 しかし、現在、私たちが直面している環境ホルモンやダイオキシンの問題を考えるとき、彼女の警告どおりのことが現実に進行しているといわざるをえないのです。

(4)べつの道へ

 レイチェル・カーソンは、「沈黙の春」を結ぶにあたって「べつの道」という章を設けています。
 彼女は「私たちは、いまや分れ道にいる」といいます。そして、これまでの道は、禍いと破滅への道であり、これとは違う「べつの道」をいくときにこそ、「私たちの住んでいるこの地球を守れる、最後の、唯一のチャンスがあるといえよう」と強調するのです。
 彼女が強調する「べつの道」というのは、直接的には農薬・殺虫剤など化学薬品を大量に使用する害虫防除の方法(化学的防除)に替わる、天敵利用など、生物学的防除の方法のことです。害虫防除の方法にかぎらず、現実には、私たちが直面している問題がそう簡単に解決するわけではありません。しかし、「私たちのすんでいる地球は人間だけのものではない」との認識のもとに、かけがえのない生命と環境を守るための、あらたな可能性の探究への努力を惜しんではならないのです。

 

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